『夜光』の関東初上映に寄せて 葛生賢
「まじめな野心、それは志であり、映画に対する情熱だ」と、万田邦敏は『水の話』(トリュフォー/ゴダール)について、最近刊行された『再履修とっても恥ずかしゼミナール』の中で、当時の官房長官の発言をもじって述べている。もちろんこう発言してしまうことの無邪気さに極めて自覚的な彼は、この言葉の後に急いで「この青臭さと大見得」と注釈するのを忘れず、しかも「しかし、だからといって今なおこれと同じ子供っぽさが、政治の世界はいざ知らず、映画の世界にあって貴重であり、永遠のものであり得るかとなると果たしてどうか。」と疑義を表明している。この疑義もそれが書かれた1990年代前半にあっては、有効性を持ち得たかも知れない。しかし、周りを見渡せば「野心」も「志」も「情熱」も欠いた(あるいはそれらが空回りした)日本映画ばかりがごろごろ転がっている、2000年代も終わりに差しかかったこの時期にあって、「野心」と「志」と「情熱」の三つを兼ね備えた桝井孝則の待望の新作中編『夜光』の試みは極めて貴重である。
処女短編『罠を跳び越える女』における、その試み自体は評価されるべきものであるが、やや性急かつ生硬なストローブ=ユイレの日本的な土壌への移植(坂口安吾の恋人であった矢田津世子のプロレタリア小説の映画化である)の経験を通じて、この映画作家が取り組んだのは、日本語の台詞の発声の問題であり、そこで彼が発見したのは、関西弁の韻律の美しさである。マスメディアにどっぷり浸った関西圏以外の人々にとって、関西弁とはたかだか「お笑い」や「バラエティ」の世界において「標準語」に対して道化的な役割をする従属的な言語にしか過ぎないかも知れない。しかし『夜光』を見、そしてそこで登場人物によって交わされる言葉に耳を澄ましてみることで、私たちはほとんど関西弁の詩的言語化とも言える驚くべき事態に立ち会うことになるだろう。特にそこで唐突に断ち切られる接続詞(「そして」)の美しさ!それはこれまで日本映画に存在しなかったものだと自信を持って断言できる。しかもこの作家においては、この詩的実践が政治的な姿勢と密接に結びついているのだ(「美学の政治化」)。もっとも「政治」といっても、それは大文字の政治を指しているわけではなく、私たちの日々営む生活に深く根ざし、そこから立ち上がってくるものとしての「政治」である。冒頭のショットで提示されるカフェ(それは関西のシネフィルにはおなじみの映画館、プラネット・プラス・ワンの下にある「太陽の塔」だ)の常連客から選び出されたという素人俳優たちは、的確な演技指導を施されることによって、画面の中で素晴らしい存在感を放っている。こうしたキャスティングの発想源が、『シチリア!』(ストローブ=ユイレ)以降の諸作でおなじみのシチリアの素人劇団とストローブらとの共同作業から来ていることは想像に難くないが、『夜光』の映画作家はそのアイデアを単なる思いつきに終わらせずに見事に現実のものとなし、その達成は驚嘆すべきものである。この他にも賞賛すべき点は多々ある。例えばヒロインの友人のカフェを営むカップルのボケとツッコミには大いに笑わされたし、ヒロインが一人ベッドの端に腰掛けて一人語りを始める最初の瞬間には深く心を揺り動かされ、思わず涙してしまった(このシーンは意図せざるダニエル・ユイレ追悼にもなっていると思う)。そしてヒロインの恋人が彼女に宛てて黙々とメールを打つショットはまさに「発明」の名に相応しいものだろう。
かつて映画批評家の安井豊は現在の日本映画に欠けているものとして「知性」と「倫理」を挙げていた。私見では、この作品はその二つの課題に真っ向から取り組んだ、数少ない真摯な作品である。しかもそれが驚くほどの少人数のスタッフと低予算によって達成されたという事実は、これから映画を志そうとする若い人たちを必ずや励ますに違いない。心ある映画好きは、これまで関西でしか見ることのできなかった幻の傑作を目にすることのできる、このたった一回限りの貴重な機会をぜひとも逃さないで欲しい。
葛生賢(くずう・さとし)
1970年生まれ。映画作家、映画批評家。『AA』(青山真治)などの作品にスタッフとして参加した後、『吉野葛』で自身も映画製作を開始。また「flowerwild」「映画芸術」などに映画批評を寄稿。
『夜光』について 海老根剛
ぎりぎりになってしまいましたが、大阪から参戦する桝井監督の『夜光』を応援します。
『夜光』は特権的な個人ではなく、「普通のひと」の映画です。仕事は生活費稼ぎと割り切って、休日に趣味の音楽に没頭しようと思って就職したのに、いつの間にか仕事に追いまくられて気がつけば楽器に触ることもなくなってしまっていたり、研究が続けたくて非常勤講師や塾講師をしていたのに、いつの間にか疲弊して研究へのモチベーションが失われている自分に気がづいたり、マッキンゼー流処世術のカッコ良さに惹かれて勝間本を読んでみたものの、「こりゃ自分には無理だわ」と内心思ってしまったり、長期間の就職活動でへとへとになってしまったりしている、そんなわたしやあなたの現在がこの映画には描かれています。じっさい、この映画に出演しているのは、大阪の中崎町周辺で働き暮らしているひとたちです。
しかしだからといって、『夜光』はわかりきった日常を退屈に反映するだけのリアリズム映画ではありません。むしろその対極にあるといっていいでしょう。厳格なショットのひとつひとつのなかで、登場人物たちはじつに堂々とした存在感をもった立ち姿で現れ、決して日常的ではない言葉遣いで会話を交わします。アクションも発話も、奇妙な感触を強烈に残します。
特にこの映画で話される言葉のありようは、唯一無二と言っていいでしょう。前作では原作の書き言葉から台詞が作られていたのに対して、『夜光』では、桝井監督がインタビューでも語っている通り、現実から採集した言葉をもとに構成された台詞が用いられています。この話し言葉でも書き言葉でもない言葉の魅力をぜひ味わってほしいと思います。映画における言葉のありようにはまだまだ私たちに未知の可能性が潜んでいるのだと知ることになるでしょう。
したがって、『夜光』は私たちの普通の生活を描いていますが、それを強烈に異化してもいるわけです。そして、この映画に登場する普通の人々は、自分の現実を変えようとして、迷い、考え、最初の一歩を踏み出します。それはどんなにささやかなものであろうとも、現実を「いまあるものとは別のもの」として想像=創造しようとする試みです。まさにこの点でこの映画の形式と内容は厳密に一致しているわけです。そのとき、私たちの眼前で、見慣れたものだったはずの世界の相貌が一新されていくことに、私たちは深い感動を覚えることでしょう。夜の闇のなかに光が瞬き出すのです。
海老根剛(えびね・たけし)
大阪市立大学大学院文学研究科・文学部(表現文化コース)准教授。専門分野は、ドイツ研究・文化学・映画論。大阪都心・船場を拠点に、都市における芸術の可能性を追求する「船場アートカフェ」にディレクターのひとりとしても関わっている。
『夜光』桝井孝則 梅本洋一
「未来の巨匠たち」特集上映の枠で、桝井孝則の『夜光』を見た。プログラミングに携わるひとりなのに、初めて見たと告白する無責任さを許して欲しい。関西に住む彼の作品に触れる機会がなかったと言い訳するのも、DV撮影されているのに、ディジタル時代のアナログメディアである映画がなかなか距離を踏破しづらいことを示しているのかも知れない。
海老根剛の文章はこのフィルムにはうってつけのイントロダクションになるだろう。そして桝井孝則のフィルムを、ものの1分も見れば、このフィルムが作っている力学を感じられない人はいないだろうし、その映画を見たことがある人なら一様に「ストローブ=ユイレ!」と呟いてしまうだろう。異様なテンションで語られるリアリズムから遠い台詞回し、長々と続行する風景のショットとノイズを排除しない現場の音……そう書けば、ストローブ=ユイレの真似事は誰にでもできそうなのだが、ゴダールの真似をできる人がいないように、映画の限界体験でもあるストローブ=ユイレの力学をそのままコピーしたところでストローブ=ユイレになれる人など誰もいない。なぜなら、ストローブ=ユイレのフィルムが生成するのは、フォルムではなく、力学からだからであって、その力学は、厳密な弁証法に基づいて成立する。音声と映像と簡単に言ってしまえばそれまでなのだが、その弁証法的な力学に到達できる人は、例外的だ。
つまり桝井孝則は例外的な存在だ。彼のフィルムでは、どんな局面においてもそうした弁証法的な力学が息づいている。台詞と声、ペンと紙、男と女、都会と田舎、停止と移動、時間と空間、仕事と金銭……。表面的には、派遣労働者である女性と同じように写真家になりたいのだがアルバイト生活をする男性の労働についての物語の体裁を採っている。重要なのは、その物語が語る内容ではなく、弁証法の産み出す力学であって、映画は、その要素をひとつひとつ詳細に知的に構成しつつ、弁証法の運動をそのプロセスのまま提示している。『夜光』は、その意味で、撮ってしまった映画とは正反対の位置にある。
むろん、こうした映画が備えている困難さについては誰でもが知っている。映画は商業であり、娯楽であると言われれば、このフィルムは、その範疇には入らない。映画産業から見れば、このフィルムは映画ではない。だが、映画にはどんな可能性があり、映画でどんなことが可能になるか、という商業を括弧に入れて、別の問題を立てれば、このフィルムほど、その問いにまっとうな回答を与えているフィルムはないだろう。つまり映画とは思考である。映画とは弁証法の運動である。
梅本洋一(うめもと・よういち)
1953年生まれ。横浜国立大学・教育人間科学部マルチメディア文化課程教授。パリ第8大学大学院映画演劇研究所博士課程修了(映画論、フランス演劇史専攻)。最近の著書に『建築を読む』(青土社、06年)、『映画旅日記 パリ、東京』(青土社、06年)ほか。
『夜光』桝井孝則 松井宏
桝井孝則監督の2009年作品『夜光』。その51分のなかでは、ある風通しの良さ、というか解放感のようなものが本当に強く感じられる。そして見るたびごとに、この印象は増すばかりだ。その理由を考えてみた。そしてこう言ってみようと思った。つまり、まさしく「無垢」こそをこの作品が提示しようと試みているからだ、と。
けれど無垢とは何だろう。それは生まれつき与えられたお気楽なものでもないし、単純さや素朴さでもない。この作品に誰もが認める、異質な抑揚(抑揚がない、とも言えるだろうか)とリズムを持つ役者たちの発話、ほとんど不動のまま言葉を発するそのからだ、突如はじまるモノローグや朗読、あるいは、そんな彼らを切り取るほとんど不動のフレーム。いわゆるリアリズムからは遠く離れたそれらの演出は、自然さやら素朴さ、単純さやらナイーブさなどとは無縁だ。
たとえばこれは物語でも同様だ。都会に暮らす若いカップル。ふたりともバイトや派遣で何とか生計を立てつつ、でも忙しさのなかで「やりたいこと」を見失い、生活と仕事の分離に追い込まれている。そんなとき男は、「やりたいこと」だったカメラをふと手にし、またふと農業に興味を持ち、やがて実際に自ら畑で働きはじめる……。ここには、もちろん、失われた無垢を自然回帰によって回復する、などという体の良い詐欺は皆無。都会を否定して自然へ(その逆でもいいけれど)といった類いの否定の力に、『夜光』はかかずらわない。代わりに女はこう言う。「都会のなかでも自然のなかでも、みな仕事に追われている」。男は応える。「でもいったい、誰が、何が、そんな状況に追い込んだのだろう?」。
いったい何が世界をこんな状況に追い込んだのか。そう思考することで男と女は、そして『夜光』は、自分と他者を含む世界を、じっくり見すえる。そのとき目指されるのはもはや自己否定でも他者否定でもない。重要なのは、そんな否定的な力を改めて肯定的な力に変えること。すなわち、他者へのおおきなやさしさへと変えることだ。それも、「君はいまのそのままでいいんだよ」なんて詐欺を呟くのじゃなく、君にはまだ知らない力が、美しさが備わっているんだと、それを他者に向けて、自分に向けて、ひいては世界自身に対して伝えること。あるいはその力や美しさを引き出してやること。おおきなやさしさとは、そういうものだ。
たとえば桝井監督の語る「そのひとのもっとも美しい声」とは、まさにそのようにして獲得されるものである。「『夜光』において僕が一番意識していた事はその人の最も美しい声を示すことです。本人も気づかなかった自分の声を聞くこと」(『夜光』公式HP掲載の葛生賢氏によるインタヴューより)。役者たちが言葉を血肉化し、まさにからだが話すようになるまでは困難で長い共同作業が必要だったようだ。それはほとんど、役者と監督との文字通り熾烈な持久戦の闘いでもあったはずだ。そう、だからおおきなやさしさには闘いが不可欠。「もっとも美しい声」を獲得するにはどちらが欠けてもダメなんだ。
そうだ。だからこう言えるのだ。無垢とはまさしく、この「もっとも美しい声」なのだ。それはつねに持久戦のなかで、一瞬一瞬闘いとらねばならない。最初に記したような『夜光』の厳格な形式は、まさにその闘いに必要な強さであり力だ。そしてまた無垢とは、おおきなやさしさだ。世界を肯定する力だ。そしてそのためには自らの、他者の、そして世界自身の「もっとも美しい声」が必要だ。重荷を背負わされ抑圧された駱駝から、他者を否定して自ら支配者となろうとする獅子へ。ツァラトゥストラさんがかく言うように、精神の三段変化の最後とは、幼な子=無垢への生成である。
「幼な子は無垢である。忘却である。そしてひとつの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。そうだ、創造の遊戯のためには、わが兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ」。
あるいは無垢とは、物事を別様に照らし、別の見え方を提示する光そのものだ。『夜光』が目指すのは無垢である。『夜光』は映画を忘却し、それによって世界を肯定しようと試みる。だからこそ、どこまでも解放感に満ちた作品なんだ。
松井宏(まつい・ひろし)